旧ソ連の作曲家ドミトリー・ショスタコービッチは1969年に交響曲第14番を上梓し初演した。
彼の晩年のことであり彼自身の体調の悪化もあり死への意識がことさら濃い作品となっているが、同時に当時のソ連の圧政下における不条理な葬列への体制に組みせざるを得なかった彼なりの半旗でもあるともされる。
 
「死者の歌」という表題は例のごとく日本でしか通用しない俗称である。しかし、リルケ、アポリネール、ロルカ、キュッヘルベケルが書き綴った「死」についての詩を選したこの交響曲には強烈な死のコノテーションが充満しており、これほどの「死」の楽曲をヨーロッパ古典系譜上の楽曲の中で、シューベルトにおいてもマーラーにおいてもシェーンベルグの「アウシュビッツ」においてもそしてブリテンにおいても私は知らない。
 

 何故、今、突然「死者の歌」なのか? いや死に今などという疑問は成立しないのかもしれない。死はいつも隣接してここに存在している。常にだ、今などではない。



第11曲:結び ライナー・マリア・リルケ


死は偉大だ 歓喜のときにも それは見つめている。 
最高の人生の瞬間、
我々の中に悶え、 
我々を待ち焦がれ、
我々の中で涙している。




「死者の歌」などとしたところで死者達が歌いだすはずもない。 彼らの声帯も口唇もすでに腐食している。
例え、宗教やら、名声やら追想や、記録、霊魂など、なんだかんだ並べてみたところで、すべては御託にすぎない。 
 いくら屍体がじたばたしたところで存在を奪われた意識が機能することなどない。 そう考ると種を持続させる生体というものはずいぶんとドライなシステムを構築したものだ。

 
 個体に残すものなどなにもない。子や孫が系譜として遺伝子を継承していたとしても死者にはなんらの感慨も感覚も意識も持ち得るはずがない。
ショスタコービッチ君よ、君が恐れた圧政による死はほど遠く。 アポリネール君よ、リルケ君よ、君らはもう知っているはずだ、君たちが恐怖し戸惑いに陥れた死など今の君たちにとなってはなにもなかったことを、君たちはもう知ることさえできない。 君たちは最早存在しないのだから。 君たちには、時もなく、光もなく、過去もなければ悔恨もない。

TETSUO FURUDATE

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